zatta

最近、ブログのカテゴリに困っています。メインは恋愛愚痴や生き方愚痴なんだが、それだけじゃないしなあ……

恋心

差が出ない話

 ふー。こないだ結婚式があってだな。僕と友人子ちゃん共通の人で、双方とも呼ばれてたわけです。
 式は良かったですよ。軽く泣きそうになりました。 

 なんだけど。やっぱり友人子ちゃんと会うのは気が重い。
 ……正確にいうと、気が重かった。今は「なんだかなあ……」な感じ。

 家で祝儀袋を書いてきた僕と、現場で書く友人子ちゃんと。
 水引の向きを知っている僕と、逆向きで出そうとした友人子ちゃん。

 受付の人、待っているんじゃないんかなあ?
 てか、前会ったときも、閉店音楽が流れる店でもたついていたよね?

 なんていうか、いちいち「イラっ」てくるし。
 「こんなんがいいのか」って友人子ちゃん旦那にも「イラっ」てくる。
 席が隣なのもなんだかな、って感じになるし、二次会?の席も隣にされてめんどくせって思うし。 
 僕以外の人が、平然と受け入れられていることに、「イラっ」ていうより「自分の心の狭さ」に落ち込む。

 席が隣になるのは、そりゃあ僕のこういう心理をオープンにしていないせいだし。
 たかが水引の向きなんて常識、知っているか知っていないかなんて紙一重の世界だし。
 昔の僕もやってたことじゃないか。
 なのに、行動のいちいちにイラっときている自分は、「自分が矮小だから」みたいな気になってくる。

 どうも僕は、「僕か友人子ちゃんかの二者択一」を無意識のうちに迫っている心理になっていて。
 共通の友人が友人子ちゃんとしゃべるたびに、「ああ、僕の居場所が侵食された」「もう僕の場所はないんだ」って思ってしまう。


 けど、(僕はメーカーの人間なので製品に例えてしまうけど)良品/不良品の見分け方なんて、それこそ検査員しだいなんだ。検査をクリアした製品と、検査をクリアしていない製品、混ぜてしまえば、見分けがつく人にはつくだろうし、つかない人にはつかない。ただそれだけのことなんだ。
 あるいは、「差はあるのはわかるけど、両方とも検査基準(許容範囲)内」ってことかも知れないんだ。

 部屋を片付けられない僕と、ちゃんと部屋を片付けられる人が、「ちゃんとした社会人」でひとくくりにされてしまうのと同じこと。
 なんかの基準で、友人子ちゃんが魅力的に映って、僕がそうでなかったってこと。それは、「社会人として知っているであろう常識を持っているか否か」とは別なんだってこと。

 ああ、なるほど。
 「なんでこういう人が結婚できるんだろう」って思っていたけど、あるモノサシにおいて、僕が大事にしているもの(人に迷惑をかけてはいけない)は、見分けられないもんなんだ。

 僕は、僕を見分けてくれる人を大事にしよう、うん。 

機能停止モード

 どうも昨日でリミット越えたっぽい。久々に、「涙が勝手に出てくる」状態。
 最近の生活がぐだぐだな上に、昨日がトドメになったんかなあ…… 

 昨日は、例の友人子夫妻を交えて遊びに。うすうす予想はしていたけど。

 うーん。どうも感情の整理がつかない。いろいろいろいろ考えてしまう。

 ああ、なんだ、まだ捨てられていないのか、とか。
 別れる気配ないなあ。ていうか、別れる出来事を起こすエネルギーがなさそう。穏やか?という一言ですますようなレベルじゃねえぞ、なんつーか、二人して冬眠中のリスかよ、この覇気、とか。
 ああ、弱くなったな、この人(旦那のことね)、とか。一人で生きられる人だと思っていたのに、「彼女に尽くす、ただの人」だったのか、とか。

 「万人に嫌がられるような行動をしてくれればいいのに」と「めっちゃいい人だったらあきらめられたのかなあ」(彼女のことね)って思うのに、彼女の行動がびっくりするほど「可もなく不可もなく」としか思えなくって、気持ちの折り合いがつけられない。「むかつく」も「しょうがないかあ」のどちらにもできない、しんどい。「なんで彼女なのか?」が腑に落ちないのもしんどい。

 僕を好きになってほしいわけじゃない。けど、僕の過去の思いと現状の思いのギャップはどうやって埋めればいいかわからない。サンクコストにとらわれることほど愚かなことはないのはわかるけど。

 彼女が何かを言うたびに「甘えている」って思う。旦那が彼女に大して穏やかな声を、気遣いをかけるたびに「気持ち悪い」って思う。
 ねえ、どうしてかな。いい人間関係を作るためには、「自分でできることは自分でやる」が原則じゃないの? 依存するような、そんな関係がいいの?

 うん。たぶん、僕は耐えられない。うん、知ってる。僕ではダメだ。「人に優しくされると堕落してしまう」って考える僕では、絶対、こんな関係は作れない。スカラーの問題じゃない、ベクトルがどうしても合わせられなかった。

 でさ。
 現実、「人としていい関係を作るためには、ちゃんと自立しよう」って戒める僕は、どうしてダメなんかなあ? 「『愛されたい』『優しくされたい』って他人に要求することは弱さだ」って考えは間違っているんかなあ? 「他人に見返りを求めてはいけない」って戒めて、求めない自分になれなくてその不甲斐なさがもう嫌で。

 それとも単に、「自分の知らない世界へいってしまった二人」に嫉妬しているんだろうか。今まで僕に向けられていた意識が1+1から2人で0.4ぐらいになった(のこりの1.6は二人の間で取り交わしていてて僕には来ない)のが、単純に許せないだけか、とか。

 あの二人の関係を「愛しあう」っていうすばらしい(とされていること)ならば、僕は依存という弱さにしか思えない。頼りあう(ちなみに僕の目には一方的によりかかっているように見える。稼ぎは彼女のほうが上だが)くせに、外部になんら生産性がないのならば、それは「楽」しようとしている、すなわち「堕落」と呼ばないの?

 ああ、そっか。
 僕は「人といい関係を作るためには自立していなければならない」って思っている。すなわち、「もっと強くなれる」って信じている。それはつまり、「人は一人では生きていけない」という限界を感じたことがないから、なんだ。自己卑下と臆病という名の幾重ものセーフティロックがあったしなあ。

 さらにいうなれば、僕が「他人に頼ってはいけない」と考えるのは、「自分ひとりでやらなければならない」の前提として「かかる時間はさておき、いつかきっと自分ひとりでできるようになるはず」っていう、わけのわからない目論見を持っているから、なんだ。それともアレかな。「できない、なんて許されない」だろうか。……やはりあれかなあ。根本的に人間不信かなあ。

 自分の力に限界を感じれば、「もっと強く」を求めずにすむのかなあ。限界を感じるまで、何かをがんばらなきゃいけないのかなあ。


 頭のなかがぐーるぐる。
 ショートするわ、頭は痛いわ。

 うん。考えるのをやめよう。ぼんやりネット見るのもやめよう。
 吐き出し始めたら止まらなくなったけど、今日は僕自身の機能をいったん凍結する宣言しにきたんだよね。

 今、ちょっとググったら、僕は「依存」の次のステージの「自立」にいて、「自立だけではダメ」なところにいるっぽい。
 機能を停止させて、自己診断できるぐらいに回復したら、もう少し、自立の先について考えてみよう。
 そして、醜い願いではあるのだけど…… 僕が彼女より劣っている存在ではありませんように。

 


 

 
 

 
 
  
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